元鳥取県知事で、石破茂さんの父親の石破二朗(いしば じろう)さん。

建設事務次官を経て、1958年から1974年まで4期16年にわたり鳥取県知事を務めました。その後は参議院議員になり、1980年には自治大臣・国家公安委員長に就いています。息子の石破茂さんは2024年10月に首相になり、2025年10月に退任。2026年2月の衆院選で14回目の当選を果たし、今も鳥取1区の衆議院議員です。
石破二朗さんの家族は、この顔ぶれです。
- 父:石破市造さん。農家で、大御門村の村長も務めた
- 母:マサさん
- 兄弟:2男4女の次男
- 妻:和子さん。国語の教師でクリスチャン
- 子ども:娘2人と、長男の石破茂さん
- 実家:鳥取県八頭郡八頭町郡家殿
石破二朗のプロフィール
- 名前:石破二朗(いしば じろう)
- 生年:1908年
- 出身:鳥取県八頭郡大御門村(今の八頭町)
- 学歴:鳥取県立第一中学校(四年修了)→ 旧制高知高校 → 東京帝国大学法学部
- 経歴:内務省 → 建設事務次官 → 鳥取県知事(4期)→ 参議院議員(2期)→ 自治大臣
東京帝大を1932年に卒業して内務省に入り、警視庁の署長や陸軍の司政官などを務めました。1955年から1958年まで建設事務次官を務め、1958年12月に鳥取県知事になっています。1980年には自治大臣・国家公安委員長になりましたが、がんの手術のため半年で辞任しました。
石破二朗の実家は鳥取県八頭町
実家は八頭町郡家殿
石破二朗さんが生まれたのは、鳥取県八頭郡大御門村大字殿、今の八頭町郡家殿です。

生家は殿の集落にあり、前庭には古い柿の木がありました。家はもう残っていませんが、柿の木は今もあるそうです。
近くにある和多理神社は、2024年8月24日に石破茂さんが自民党総裁選への出馬を表明した場所です。あたりは「石破村」と呼ばれるほど石破姓の家が多く、1986年に石破茂さんが初めて選挙に出たときの原点の場所でもあります。表明のあと、石破茂さんは近くにある両親のお墓に報告に行きました。
実家はお金持ち?
石破二朗さんの実家は、6人の子どもを抱える農家でした。お父さんの市造さんは、ほかの人より先に柿の栽培や養蚕を始めましたが、どれもうまくいかなかったそうです。1961年、知事になった石破二朗さんが、農業の普及員にそう話していたといいます。
それでもお父さんは子どもの教育に熱心で、石破二朗さんは東京帝国大学まで進みました。お金持ちだったという話は伝わっておらず、家計がどの程度だったかもはっきりしません。
石破二朗の父親は石破市造さん
父は村長も務めた
お父さんは石破市造(いしば いちぞう)さんです。
- 1874年12月2日、八頭郡大御門村生まれ
- 高等小学校を出て農業に就く
- 1894年に隼村役場の書記になり、のちに大御門村役場へ
- 1908年に大御門村の村長に
- 1941年1月19日に66歳で死去(1942年とする資料もある)
若いころから二十世紀梨の栽培や御所柿の植樹、蚕の卵の製造など、新しい農業に挑戦しました。自分の学歴が足りないと感じていたことから、英語の講義録を取って勉強するほどの努力家で、子どもの教育にも力を入れたそうです。

石破二朗さんの銅像は、1988年9月に鳥取市富安2丁目、鳥取中央郵便局の交差点のそばに建てられました。作者は彫刻家の福嶋敬恭さんです。鳥取砂丘こどもの国の駐車場には、記念碑もあります。
石破二朗の母親はマサさん
母は岩美町の出身
お母さんはマサさんです。岩美郡米里村美和(今の岩美町)の山田松太郎さんの長女でした。
1876年9月に生まれ、1928年4月1日に亡くなっています。満51歳でした。石破二朗さんはまだ20歳前で、東京帝大に入るころのことです。
長女の里喜さんから三女の敏子さんまで、養女の艶子さんを含む6人の子どもの母でした。
石破二朗と家族のエピソード
祖父と植林に行った思い出
石破二朗さんは小さいころ、おじいさんの常七さんとよく山へ植林に行きました。お父さんに言わせると、おじいさんは木を植えるのがあまり上手ではなく、根を曲げて植えてしまうこともあったそうです。それでも、おじいさんはこう話していたといいます。
石破二朗の祖父こうやって木を植えておくとお前が分家するときに役に立つだけえなあ
その山はのちに人の手に渡ってしまいましたが、この思い出から石破二朗さんは木を植えることを大切にしていました。1972年ごろ、知事として倉吉市の分収造林の祝賀会であいさつしたときに、この話を紹介しています。
毎週末の帰省
東京で働いていたころも、石破二朗さんは毎週末のように鳥取に帰り、病気がちな奥さんを見舞い、墓参りを欠かさなかったそうです。高知高校時代に帰省したときは、隣の家の女性の西瓜売りを手伝い、荷車を引いて新興寺まで行ったこともあったといいます。
1955年には田中角栄さんから東京都知事選に出るよう頼まれましたが、「鳥取県知事なら受ける」と断りました。最初の知事選の開票の夜には、田中角栄さんが東京の家で石破二朗さんの娘2人とこたつに入って、一喜一憂してくれたそうです。
1981年9月16日、石破二朗さんは鳥取県立中央病院で73歳で亡くなりました。葬儀委員長は田中角栄さんが務めています。お墓は旧郡家町にあります。
石破二朗の兄弟姉妹
2男4女の次男
きょうだいは養女の艶子さんを含めて6人で、生まれた順に並べるとこうなります。
- 長女:里喜さん(1899年10月生まれ)
- 養女:艶子さん(1901年7月生まれ)
- 長男:節さん(1902年4月生まれ)
- 次女:喜久野さん(1905年7月生まれ)
- 次男:二朗さん(1908年生まれ)
- 三女:敏子さん(1913年2月生まれ)
長女の里喜さんは、医師の家系で教育者の臼井宗さんに嫁ぎました。宗さんは小学校の校長などを務め、その子の宗雄さんは鳥取市で眼科医をしています。養女の艶子さんは、岩美郡倉田村の圓通寺の山本音市さんに嫁いでいます。
石破二朗の妻と子ども
妻は国語教師の和子さん
奥さんの和子さんは、1918年8月生まれの国語の先生でした。お父さんは徳島県知事や山形県知事を務めた官僚の金森太郎さんで、おじいさんは熊本バンドの一員だった牧師の金森通倫さんです。
和子さんはクリスチャンで、子ども3人をキリスト教徒に育てました。石破茂さんは、金森通倫さんから数えて4代目のクリスチャンにあたります。和子さんは1991年9月に亡くなりました。
子どもは娘2人と石破茂さん
子どもは3人です。
- 長女:1940年生まれ
- 次女:1941年生まれ
- 長男:石破茂さん(1957年2月4日生まれ)
娘2人は、和子さんの希望で中学から女子学院に進み、東京女子大学を卒業して教師になりました。石破茂さんの著書によると、上の姉は国語、下の姉は英語の先生です。上の姉が英語、下の姉が歴史とする資料もあります。
石破茂さんが生まれたとき、石破二朗さんは建設事務次官で48歳でした。石破二朗さんは「金太郎」と名付けるつもりでしたが、和子さんが「『ヤーイ、金太郎』といじめられたらどうするんですか」と反対し、吉田茂さんの「茂」をもらったそうです。1958年に石破二朗さんが知事になると一家は鳥取に移り、石破茂さんは中学卒業まで郡家町で過ごしました。
父の死後、息子が政界へ
石破二朗さんが亡くなった1981年、石破茂さんは三井銀行に勤めて3年目でした。田中角栄さんに出馬を勧められ、田中派の事務局で働いたあと、1986年に29歳で初当選しています。石破茂さんの妻・佳子さんとの縁も、石破二朗さんの死に佳子さんが弔電を送ったことがきっかけでした。
2026年10月18日時点で、石破茂さんは鳥取1区の衆議院議員として活動を続けています。
まとめ
今回は「石破茂の父親・石破二朗の経歴が凄い!家系図や母親・兄弟など家族もまとめた!」と題して、石破二朗さんの家族についてまとめました。
- 石破二朗さんは建設事務次官、鳥取県知事(4期)、自治大臣を務めた
- 実家は鳥取県八頭町郡家殿の農家で、2男4女の次男
- 父の市造さんは大御門村の村長で、子どもの教育に熱心だった
- 母のマサさんは1928年に51歳で亡くなった
- 妻の和子さんは国語教師でクリスチャン
- 子どもは娘2人と、長男で元首相の石破茂さん
以上の内容がわかりました。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。