小泉今日子(こいずみ きょうこ)さんは、歌手であり女優としても第一線を歩み続けている方です。

「なんてたってアイドル」をはじめヒット曲を連発し、一時代を築いたトップアイドルだった小泉さん。近年は女優として、また制作会社の代表としてマルチに活動されています。
そんな小泉今日子さんを育てた家庭、お父さんお母さんとは、一体どんな方だったのでしょうか。
今回は小泉今日子の母親は元芸者!顔写真や父親に兄弟など家族も調査!という切り口でお届けします。
小泉今日子さんの実家やご両親、姉妹といった家族の情報に加え、結婚・離婚や恋愛にまつわるエピソードまで幅広く調べてみました。
小泉今日子の実家はどんな家庭だった?
まずは小泉今日子さんが生まれ育った実家について見ていきましょう!
小泉今日子の実家は神奈川県厚木市
小泉今日子さんが生まれ育ったのは神奈川県厚木市。
地元の公立校である厚木市立三田小学校、厚木市立陸合中学校で学生時代を過ごしています。
ご実家は「メリケン亭」というお好み焼き店を営んでいました(本厚木・2014年に閉店)。
地元のタクシー運転手に「キョンキョンの実家のお好み焼き屋まで」と告げれば、ちゃんと連れて行ってもらえたというエピソードも残っています。
近所には本厚木駅からほど近い「厚木公園」、通称「はとぽっぽ公園」があり、

数軒並んだ平屋の借家で、2歳になるまで暮らしていたそうです。
(今ではすっかりビルやマンションが立ち並ぶエリアになっています)
その後、親族から譲り受けた土地にお父さんがマイホームを建て、一家は厚木市郊外へと移り住みました。
小泉今日子さんは15歳で芸能活動をスタートするまで、この家で育ったといいます。
小泉今日子の実家はお金持ちだったのか?
お父さんはカセットテープの製造会社を経営する実業家でした。
本社は東京・世田谷区にあり、工場は厚木の自宅の近くに構えていたそうです。
決して大きな工場ではなかったものの、プレハブの建物が2棟あり、近所の主婦をパートとして雇用していたといいます。
会社経営者の家庭と聞くと、裕福な暮らしぶりを想像してしまいますが、実際はどうだったのでしょうか。
ところが小泉今日子さんがまだ幼かった頃、お父さんの事業が行き詰まってしまいます。
借金取りの目を逃れるため、母と娘たちは手狭なアパートへと転居することになりました。
この経験からお金に対する感覚がシビアになり、後に芸能界に入ってからも無駄遣いをしない性分になったといいます。
2016年に刊行した初のエッセイ本の中で、

生活は楽しかったけれど、お金の面では厳しかったと振り返っています。
こうして調べてみても、小泉家が裕福だったと裏付ける材料は見当たりませんでした。
それでも、どんな逆境でも面白さを見出してしまいそうな小泉今日子さんですから、
きっと「おもしろいじゃん」の一言で乗り切ってきたのでしょうね。
小泉今日子のご両親(父・母)はどんな人物だった?
続いて、小泉今日子さんを育てたお父さん、お母さんについても詳しく調べてみました!
父親・小泉信廣さんは会社経営者
お父さんのお名前は小泉信廣(こいずみ のぶひろ)さん。
小泉今日子さんは、懐が深かったお父さんのことがとても好きだったといいます。

・家族の中でいちばんの物知り。新聞を隅から隅まで読み込んでいた。どんな質問にもきちんと答えてくれる存在
・口数は少なめ
・テレビのチャンネル権は絶対にお父さんのもの
カセットテープ製作会社の経営危機がひとまず収まるまでの間、家族は一時的に離れて暮らすことになりました。
ところが、いざ「元の生活に戻れる」となった段階で、新しい暮らしにすっかり馴染んでいたお母さんたちは戻ることを拒否。
学校に近いこと、そして一人暮らしをするお父さんを気の毒に思ったことから、小泉今日子さんだけが実家へと戻ります。
こうして、父と娘、二人だけの生活がスタートしたのです。
案外心地よかった父娘ふたり暮らし
猫も加わった、父娘二人と一匹の暮らし。
お父さんは車の免許を持っていなかったので、たまの外食は自転車の二人乗りで出かけていたそうです。
学校を休みたい時のために、あらかじめ欠席届にハンコを押しておいてくれるようなお父さん。
娘のやりたいようにさせてくれる人でした。
毎日が「面白い」の連続だったといいます。
ある日、学校をサボって友人とファミレスへ足を運んだところ、
偶然にも同じ店で商談中のお父さんと鉢合わせしてしまいます!
気まずい空気…になるかと思いきや お互い素知らぬふりを貫いたそう。
家に帰ってきたお父さんが最初に口にしたのは
お父さんお前、お金持ってたの?
学校をサボっていたという事実には、あえて一切触れなかったそうです。
まるで冒険をしているようで、それが楽しかったと振り返っています。
よそよそしいくらいのポーカーフェイス
小学生時代、父親参観日にあたる授業がたまたま体育だった時のことです。
当時体育を苦手としていた小泉今日子さんは、できた子から順に座っていく鉄棒の授業で、最後の一人になってしまいました。
「お父さんはどんな顔をしているだろう…」とこっそり様子をうかがうと
すでに帰っていく後ろ姿!
普通なら傷つくところですが…
ですが、「そうだよね、いたたまれないもんね。いいよいいよ、帰っちゃって」
と、むしろほっとしたのだとか。
お互いにドライな親子だったからこそ、笑い話として語れる案件ですよね。
また、次女であるお姉さんが多少やんちゃをしていた時期、学校から親が呼び出されることもあったといいます。
学校から呼び出しの連絡を受けたお父さんは…
表情こそ平静を装いながらも、内心はワクワクしながら出かけて行ったそうです。
こりゃ面白くなってきたぞ、様子を見に行ってこよう!というテンションだったとか。
なかなかこんな反応をしてくれる父親いませんよね!?
毎日が退屈しない家庭だったことが、なんとなく想像できますね。
娘の知らなかった父の素顔
女ばかりの家系で唯一の男子だったお父さんは「大切に育てられて」いたそうです。
チャンネル権はもちろん、家の中では何かとお父さんが優先されていました。
娘たちの中で唯一小泉今日子さんだけが受け継いだのが「ちょっとだけお酒に飲まれやすい」DNA。
お父さんが亡くなった後、お葬式に参列してくれた仕事関係の方々に



お酒ですごく迷惑をかけましたよね?
と、おそるおそる尋ねてみたところ、



いやいや、酒癖は全然悪くなかったよ
「お父さんは、家に帰り着くまでちゃんと踏ん張っていたんだな」と感じたそうです。
お父さん・信廣さんは1993年12月11日、心不全のため64歳という若さでこの世を去りました。
当時、小泉今日子さんは28歳でした。
お父さんが亡くなったことで戸籍上は天涯孤独の身になったと語っていたこともあります。
現在、お父さんは実家からほど近いお墓で静かに眠っているとのことです。
名曲「あなたに逢えてよかった」に込めた思い
小泉今日子さんのシングルの中でも、最大のセールスを記録したヒット曲
「あなたに逢えてよかった」


この曲の作詞のモチーフになったのはお父さんだと、近年になって明かしています。
小泉今日子さんが主演したドラマ『パパとなっちゃん』の主題歌として、大きなヒットとなった一曲です。
当時、お父さんは体調を崩し、入院生活を送っていたといいます。
離れて暮らすお父さんの姿を思い浮かべながら綴った歌詞なのだそうです。
最終的に離婚という道を選んだご両親でしたが、
小泉今日子さんは、父・母どちらとも変わらず良好な関係を保ち続けていました。
曲のタイトルには、これまで自分に関わってくれたすべての人への気持ちが込められているとか。
家族みんなが照れ屋というか、他人行儀というか…そんな空気が漂う小泉家。
「ありがとう」「大好き」とストレートに言葉にするよりも、かえって気持ちが伝わってくる気がするから不思議なものですね。
母親・小泉ユミさんは元芸者だった
お母さんのお名前は小泉ユミ(こいずみ ゆみ)さん。
小泉今日子さんとはあまり似ていなかったものの、若々しくおしゃれな女性だったといいます。
生まれも育ちも日暮里で、若い頃には厚木の飯山温泉で芸者として働いていた経歴の持ち主です。
町内会の盆踊り大会では、櫓の上でお手本として踊る婦人会の一員に。
その動きや所作から「あの中に一人だけプロが混じっている」と評判になってしまったそうです。
下から見上げていた小泉今日子さんにとって、母の見た目も踊りも自慢だったそうですよ。
娘の授業参観に来る時も他のお母さんたちとは一線を画す装いで、
・スカーフを巻きターバン風に仕上げたスタイル
・ミニスカートにショートウィッグを合わせたスタイル
など、かなり気合いの入った装いで登場していたそうです。
クラスの男子たちからは



小泉んちのかあちゃん色っぺーな!
とからかわれたこともありましたが、今振り返れば「あっぱれ」だったと感じているそうです。
時代は戦後の貧しい頃にさかのぼります。
実はお母さん自身も、幼い頃に一家離散を経験していました。
お母さんが10代だった時、その父親が家庭を捨てて行方をくらませてしまいます。
長女だったお母さんは、置屋を営んでいた叔母の養女として引き取られ、そのまま芸者として働くことになりました。
そこでお父さんと出会って結婚し、19歳で長女を出産したそうです。
結婚後は専業主婦として、時にはお父さんの会社を手伝いながら過ごしていました。
お父さんの会社が経営難に陥ると、古くからの芸者仲間が営むスナックでアルバイトを始めることに。
それがきっかけとなり、やがて自身のお店「お好み焼き屋 メリケン亭」を持つまでになりました。





本当はやりたいこともあっただろうけど、その生き方しか選べなかったんだろうなと思います
子どもの頃に十分な勉強ができなかった分、大人になってからは読書を好むようになったお母さん。
茨木のり子の詩『わたしが一番きれいだったとき わたしはとてもふしあわせ』の一節に、自分の気持ちが重なると話していたそうで、
娘たちには自分の意思のままに生きてほしいと願っていたのではないか、と小泉今日子さんは感じているようです。
芸能の仕事に励む娘のことも面白がって見守っていたようですね。
- 自分が読んで良いと思った本を読んでは→『この役、今日子が演じたら絶対にいいと思うんだけど』
- 娘が会社を興し、小さな劇場で芝居を打った時には→『面白かったよ。こういう場所もいいじゃない』
娘は着せ替え人形、時にはお母さんの母親役に?
昔から「これ」と決めるのが苦手な子どもだった小泉今日子さん。
好き嫌いがはっきりしているお姉さんたちは「YES」「NO」もすぐに決まる。
「なんでもいいよ」が口癖の末っ子だった小泉今日子さんは、おしゃれなお母さんにとって格好の着せ替え人形だったようです。
おしゃれだったお母さんの素顔
・コーヒーはサイフォン式でじっくり淹れる
・細身のタバコを愛用
・毎日のように喫茶店に通い、インベーダーゲームに興じていた
服を選ぶ際もなかなか決められないタイプだった小泉今日子さんが、迷った末に値段だけを見て「安いほう」を選ぼうとすると、
すかさずお母さんが「今、何した? 値段見たでしょ」と一言。
「どっちも良かったから、安いほうにしようと思って」と答える娘に対し
「私、そういうの大っ嫌いなのよ」と言いながら結局両方買ってしまうのだそうです。
優しさは人一倍だったけれど、世間一般が思い描く「お母さん」像とはひと味違った人だったようです。
幼い頃の写真はたいてい丈の短いミニスカート姿。
「キョウコの脚のかたちはきれいだから」というのがお母さんの言い分で、
もともとミニ丈だった服を、さらに裾上げしてしまうほど。
下着が見えるかどうかのギリギリの丈に仕立てられていたそうですよ。


髪型にも同じことが言え、小学生の身でパーマをあてられたり、モンチッチを思わせる超ショートにされたりしていました。
人生で初めて憧れた女性は、他でもないお母さんだったそうです。
母親というよりも一人の大人の女性として素敵だと感じていたとも語っています。
そんなお母さんの「動く着せ替え人形」にされることも嫌がるどころか、むしろ楽しんでいたそうです。
17歳の頃に暮らしていた原宿のマンションには、よくお母さんが泊まりに来ていたといいます。
お母さんは感情に正直な人で、よく泣いたり怒ったりするのだとか。
そんな時、キッチンで洗い物をしながら黙って愚痴に耳を傾ける娘。
すると、お母さんから
「あんたは私のお母ちゃんみたいだね。見た目は全然似てないのに、なにかがすごく似てる気がするのよ」
と言われたことがあったそうです。
お母さん自身、実の母親と悲しい別れ方をした経験があるため、時折その母を想っては涙することがあったそう。
そんな夜は、小泉今日子さんは明け方まで語り合ったり、母の悩みを聞いてアドバイスしたり、桃をむいて渡したり…



まるで私の方が、母を育てているようだった。
と、当時を振り返っています。
晩年、そして看取りの日々
もともと健康な人だったお母さんは、80代になって小泉今日子さんと一緒に人間ドックを受けた際も、娘より良い数値が出るほどだったそうです。
しかし高齢もあって、背骨の疲労骨折をきっかけに入院することに。
退院して一安心したのも束の間、しばらくすると今度は脳梗塞を起こし、再入院となりました。
折しもコロナ禍で、思うように面会もできない入院生活でした。
若い頃に受けた手術の影響で、特殊な入れ歯がなければ話すこともご飯を食べることもできなかったお母さん。
「入れ歯をつけてほしい」と頼んだものの、なかなか聞き入れてもらえなかったといいます。
ようやく面会が叶った時には、視線が定まらず言葉も発せず、食べ物を飲み込むことすら難しくなったお母さんの姿がそこにありました。



このままでは尊厳が守られないまま数日で死んでしまう
そう痛感した小泉今日子さん。
ヘルパーとして働くお姉さんに相談のうえ在宅医療を選び、お母さんを自宅へ連れて帰ることに決めました。
自宅に戻ってから看取るまでのおよそ1か月は、驚くほど穏やかな時間だったといいます。
そうしてクリスマスの日を迎え、
お母さんを囲んでのんびりと過ごした後、お姉さんや叔母さんたちはそれぞれ自宅へ帰っていきました。
一人家に残った小泉今日子さんが、夕食後にカステラを口にしようとしたその瞬間、
ふと“静かすぎる⁉”と異変に気づいた時にはすでに、お母さんは息を引き取っていたそうです。
「ああ、とうとう逝ってしまったんだな」と受け止めた小泉今日子さん。
看病を続けてきた人たちからは『きっとクリスマスの夜を選んだんだね』と、明るく笑い合ってもらえたそうです。
悲しみはもちろんありながらも、見守っていた誰もが、どこか納得したような表情だったといいます。



こんなふうに最後に母とかけがえのない時間を過ごせて、幸せだったなと思っています
きっと最期の迎え方そのものも、小泉今日子さんにとっての「理想」に近い形だったのかもしれません。
人生の始まりこそ「ふしあわせ」だったかもしれませんが、お母さんはきっと満ち足りた気持ちで生涯を終えられたのではないでしょうか。
小泉今日子と両親、印象的なエピソードの数々
小泉今日子さんといえば、大の読書家で、丁寧な文章を書くエッセイストとしての顔もよく知られていますよね。
そんな彼女の持ち味である「カルチャーへの感度の高さ」は、どこか独特な家庭環境の中で培われたもののようです。
世間の常識にとらわれなかった両親
・「勉強しなさい」と言われた記憶がない
・他人と比較されることもなかった
「みんなが持っているから欲しい」という理屈は、まったく通用しなかったらしく
「意味がわからない。あんた、本当にそれで満足なの?」
「みんな持ってるものなら、それって個性がないってことじゃない?」
そう言われても押し切って買ってもらうことはあったものの、結局すぐに飽きてしまう結果に。



やっぱ親の言うことは正しかったんだな…
という経験を、何度も重ねてきたようです。
まさかのアイドルデビューは面倒くさい?
小泉今日子さんの芸能界入りを、家族はどう受け止めていたのでしょうか?
当時周りでオーディション応募がちょっとしたブームだったから
そんな軽い気持ちで申し込んだ小泉今日子さん。
一次審査に受かり、テレビに出られるとなった時、
ああ、まずいことになった。どうしよう、面倒くさい!というのが最初の本音だったそうです。
合格して「まずい!」と感じるのもなかなかですが、家族はその上を行っていました。
「それみたことか、どうするつもりだ、面倒なことになったなあ」って(笑)
きっと最初から受かるだろうと踏んでいたんでしょうかね。
末っ子とはいえ、しっかり目をかけられていたのがうかがえます。
上下関係のない、ドライな家族関係
ごく普通の5人家族に見える一面、なんかちょっと友達の家とは様子が違うな…という感じもあった小泉家。
例えば、「サンタクロースにもらったもので覚えているものはありますか?」と聞かれたら
「いやうち、サンタクロースなんて来たことないですけど」って答えちゃう家族。
お父さんがサンタのコスプレなんてしたら、家族全員で「はあ?」って言っちゃう家庭だったそう。
子ども扱いして育てる環境ではなく、全員対等。
夜、「眠れない」という子供に母が絵本を読む。
微笑ましい環境に思えますが、小泉家だと
「いや、ちょっと、それだけはやめて」とゲラゲラ笑い出しちゃうんだとか。
急に母親を演じるような感じになるので、「あなた、そういう人じゃないでしょ」ってなるんだそうです。



とってもドライに感じるかもしれないけれど、でも、それが逆に私は心地よかった。
そんな、ちょっとかわった小泉家の環境。
これが小泉今日子さんの感性を育み、「我が道を行く」スタイルを作ったんでしょうね。
本人の知らないうちに決まっていた退学
地元の高校に在籍しつつ、芸能活動をしていた小泉今日子さん。
すでに拠点が東京で完成しつつあるころ、
ふと、東京の学校に編入するのかな、と思っていたので
お父さんに尋ねると



え? 退学届出したよ
お父さんと事務所の社長さんで話あって、事が済んだ後だったそうです。
蚊帳の外に置かれた本人は



ひとこといってくれてもねぇ…
というのが正直な気持ちだったそうです。
それも、もっともな話ですよね…
小泉今日子の姉妹についても調査!
小泉今日子さんに兄弟姉妹がいるのかどうかも調べてみました!
小泉今日子さんにはお姉さんが二人いらっしゃいます。
ご自分のことを「三姉妹の末っ子長男みたい」と表現されています。
姉たちにあれこれ世話を焼かれて育ったのでしょうか?
小泉今日子の兄弟姉妹は二人の姉
お二人のお名前は、小泉葉子(こいずみ ようこ)さんと小泉浩子(こいずみ ひろこ)さんです。


姉妹の仲は、特別に良いわけでも悪いわけでもなく、いたって普通(笑)だそうです。
長女・小泉葉子さんとの絆
長女の葉子さんとは、8歳の年の差があります。
幼い妹の面倒をよく見てくれていたため、「この人がお母さんなのでは」と勘違いしていた時期もあったそうです。


・頼れる相談相手として「私の知恵袋」と慕っていた存在
・ビートルズとか日本のグループサウンズに夢中だった。
フォークソング世代でもあり、吉田拓郎さんのレコードを数多く所有していた
・部屋の壁に貼られていたポスターは、ジュリー(沢田研二)、ショーケン(萩原健一)、林隆三、藤竜也
幼い頃は吐きやすい体質だったという小泉今日子さん。
眠っている最中に吐いてしまうことも珍しくなかったそうです。
そんな妹の背中をさすり、汚れを拭き取ってくれていたのは、
てっきりお母さんだと思い込んでいたところ、ある時ふと目を開けると、そこにいたのは長姉の葉子さんでした。
「あー…お母さんだと思っていたのは、お姉ちゃんだったのかー…」
と思い込んでいたことに気づいたそうです。
もちろんお母さんも面倒をみてくれたし、ご飯も作ってくれましたが、どこか周囲から浮いているところがあり、
世間一般の「お母さん」のイメージはお姉さんの方がしっくりきたそうです。
・一人暮らしを始める際には裁縫道具一式を持たせてくれた
・20歳の誕生日には真珠のネックレスとピアスのセットを贈ってくれた
・結婚の際には色無地の着物に合わせるバッグと草履一式を用意してくれた
本来なら母親が担うようなことを、代わりにすべて引き受けてくれていたのが葉子さんだったそう。
ちなみにお母さんが選ぶ誕生日プレゼントといえば
東南アジアの民芸品を思わせる象の彫刻
→という具合に、あくまで自分がいいと思ったものを贈るスタイルだったそうです。
とことん自分軸を貫いていますね…ブレないです。
葉子さんは目元が小泉今日子さんそっくりで可愛らしい容姿だったと言われています。
芸能界で活躍する妹を誇りに思い、陰ながら応援し続けていたお姉さんでした。



葉子ちゃんにとって、今日子ちゃんは自慢の妹。コンサートにも足しげく通っていましたし、NHK朝ドラ『あまちゃん』も毎日楽しみにしていました。
長女として、地元に残り実家を守り続けていた葉子さん。
お母さんから受け継いだ地元のお好み焼き店を切り盛りしたほか、
お父さんが心不全で他界した時も、葉子さんは病床の父を献身的に看病していました。
ですが、お母さんに新しい恋人ができた頃を境に、二人の関係は少しずつぎくしゃくしていったといいます。
「お母さん」として慕い、母親の理想像を求めたお姉さんには、なかなか受け入れがたいことだったのかもしれません。
すごくお互いを求め合っているのに素直になれない。
周囲から見ていて切なかったそうです。
そして、そのわだかまりが解けきらないまま、
葉子さんは2014年11月に56歳の若さでこの世を去りました。
最初は大腸癌の診断を受け、その後肝臓・肺・脳にまで転移が見つかるという壮絶な闘病生活だったようです。
12月上旬、本厚木駅近くの斎場で行われた葬儀は近親者だけでしめやかに執り行われました。
会場では次姉・浩子さんと小泉今日子さんが気丈に振る舞っていたといいます。
実家から目と鼻の先にあるお寺に、お父さんが眠るお墓があります。
実はこの場所も、父親の死期を悟った葉子さんが奔走して見つけた安住の地だったのです。
今では葉子さん自身も、そのお墓でお父さんと一緒に眠っています。
子供と、二人の孫に恵まれた葉子さん。
いつか姉の忘れ形見が自分の舞台を見に来てくれたら嬉しい
と、小泉今日子さんは語っています。
次女・小泉浩子さんとの関係
浩子さんは現在ヘルパーの仕事をしているようです。
・洋楽好きで、ベイ・シティ・ローラーズ、チープ・トリックのようなアメリカンロックやイギリスのニューウェイヴミュージックが大好き。
二人の姉があまり聴かなかった歌謡曲を好んでいた小泉今日子さん。
ずうとるびやピンク・レディー、ビューティー・ペアに耳を傾けていると



お前、そんなの聴いてたら、中学で馬鹿にされるよ
8歳差だった長姉・葉子さんはとにかく優しい存在でしたが、次姉・浩子さんとはわずか2歳差。
お父さんと二人ではしゃいでいると「お父さんが甘やかすからこんな子になるんでしょ」と言われることもあったとか。
本当は自分もその輪に加わりたかった、というのもあるかもしれません。
真ん中っ子は複雑なんですよね。
現在ではすっかり仲が良く、対等な関係を築けているそうです。
長姉・葉子さんを失い、涙する日々が続いていたお母さんを支えていた浩子さんと小泉今日子さん。
そばに寄り添い、じっくり話に耳を傾ける小泉今日子さんに対して、
現実的な性格の浩子さんは、母にケーキを買ってきたり、外に連れ出してあげたりと、行動で支えるタイプでした。
そのあたり、どこかお父さんの姿を彷彿とさせますね。
愛情の伝え方は三者三様でも、小泉今日子さんのご家族が深い絆で結ばれていることがよく伝わってきますね。
小泉今日子の結婚・恋愛エピソードも調査!
家族のことに続いて、小泉今日子さん自身の結婚・恋愛についても掘り下げてみました。
永瀬正敏さんとの結婚と、9年後の別れ
小泉今日子さんは、俳優の永瀬正敏さんと1995年2月22日に結婚しています。
出会いのきっかけは1993年、女性誌の対談企画。小泉今日子さん自らが対談相手として永瀬正敏さんを指名したのが始まりだったといわれています。
対談を通じて意気投合し、同年9月には交際が週刊誌で報じられました。
結婚式や披露宴はあえて行わず、画廊での結婚会見やプライベートな写真展の開催など、既成概念にとらわれない“お二人らしい”スタイルが大きな話題を呼びました。
しかし結婚から4年ほど経った1999年頃から、不仲を伝える報道が目立ち始めます。
子どもを望む小泉今日子さんに対し、永瀬正敏さんが難色を示していたという証言も当時伝えられていました。
2002年にはドラマ『私立探偵 濱マイク』で夫婦役として共演し、一時は復縁を期待する声も上がりましたが、関係の修復には至らなかったようです。
同年5月、永瀬正敏さんが横浜のホテルへ移り、7月には小泉今日子さんも引っ越し、事実上の別居状態になったといいます。
そして2004年2月22日、結婚からちょうど9年、9回目の結婚記念日にあたる日に離婚届が提出されました。
小泉今日子さんは自身のホームページで「悲しい報告と受け止めないでほしい」「今回のことはお互いがより自由に生きるための決意です」というメッセージをファンに向けて発信しています。
一部では、永瀬正敏さんが海外作品で共演した女優との遠距離不倫が離婚の引き金になったという噂も囁かれています。
しかしこれは週刊誌などが報じた噂の域を出ておらず、本人たちが公式に認めた事実ではありません。
実際、離婚時に小泉今日子さんが公表したメッセージには「お互いがより自由に生きるための決意」とあるのみで、不倫を示唆する内容は一切含まれていません。
そのため、この噂の信ぴょう性は高いとは言えず、あくまで一説として留めておくのが妥当でしょう。
豊原功補さんとの交際、そして破局報道
2018年2月、小泉今日子さんは長年所属した事務所からの独立を発表すると同時に、俳優の豊原功補さんとの恋愛関係を自身の公式サイトで公表しました。
「自分の罪は自分で背負って生きていきます」という言葉とともに明かされたこの交際は、当時豊原功補さんに配偶者がいたことから大きな話題を呼びました。
豊原功補さん本人の説明によれば、交際自体は2015年頃から始まっていたとされています。
公表から2日後、豊原功補さんも緊急会見を開き、恋愛感情を伴うパートナーシップであることを認めています。
その後、豊原功補さんの離婚は2020年頃に成立したと報じられています。
交際公表から8年ほどが経った2026年5月、複数のメディアによって小泉今日子さんと豊原功補さんの破局が報じられました。
交際公表以降、私生活での喧嘩が絶えなかったことなどが背景にあると伝えられていますが、こちらも本人たちが詳細を語ったわけではなく、あくまで報道ベースの情報にとどまります。
同じく2026年5月、小泉今日子さんは還暦を記念したツアー「KK60」を締めくくり、年内は休養に入ることを発表。現在はゆっくりと自分自身と向き合う時間を過ごしているようです。
まとめ
今回は小泉今日子の母親は元芸者!顔写真や父親に兄弟など家族も調査!というテーマでお届けしました。
実家やご両親(父・母)、姉妹に加え、結婚・離婚、恋愛にまつわるエピソードまで、小泉今日子さんの家族について幅広くまとめてみました。
- 小泉今日子さんの実家は、暮らしは楽しくても経済的には厳しい時期があった
- ご両親は会社経営者と元芸者という個性的な組み合わせで、「キョンキョン」らしさの土台を作った存在
- 姉妹はそれぞれ違う形で寄り添い合う、かけがえのない心の支え
- 永瀬正敏さんとの結婚・離婚を経て、豊原功補さんとの交際も2026年5月に破局と報じられている
ここまでの内容がおわかりいただけたかと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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