ロサンゼルス・ドジャースの佐々木朗希(ささき ろうき)投手。

ロッテ時代の2022年に史上16人目の完全試合を達成し、2025年にドジャースへ移籍。1年目にはワールドシリーズ制覇も経験しました。2026年は先発ローテーションに入り、ポストシーズンでは救援で登板しています。
そんな佐々木朗希投手のお父さん・佐々木功太(ささき こうた)さんは、2011年3月11日の東日本大震災の津波で亡くなりました。37歳でした。
この記事では、お父さんがどんな人だったのか、震災の日に何があったのか、そして佐々木朗希投手がお父さんから受け取ったものについて、報道されている家族の言葉をもとに紹介していきます。
佐々木朗希の父・功太さんはどんな人?
父・功太さんの顔写真
お父さんの功太さんの写真は、ドキュメンタリー番組『情熱大陸』などで家族写真として紹介されています。

右側の背の高い男性が、お父さんの功太さんです。
葬儀店で働く身長181cmの父
お父さんの功太さんは、地元・岩手県陸前高田市の葬儀店に勤めていました。日刊スポーツは、功太さんを「人生の節目に寄り添う仕事をする、人情あふれる働き者」と紹介しています。
身長は181cm。佐々木朗希投手は192cmまで大きくなり、お父さんの背をはるかに超えました。
スポーツでは、スノーボードやバスケットボールをすることはあっても、野球の経験はなかったそうです。
地域の人気者だった
功太さんは、地域でも知られた人気者でした。夏祭りでは町内会を率先して盛り上げる、太陽のような存在だったといいます。

地元では、佐々木朗希投手のことをこんなふうに覚えている人も多いそうです。
地元住民あの功太の、3人息子の真ん中の子
当時の陸前高田市長・戸羽太さんも、功太さんについてこう話しています。



(父・佐々木功太は)有言実行の人。仲間作りが上手な人だった。気さくで行動力があって、先輩も後輩も皆がついていった。


こちらも震災前の家族写真で、いちばん左がお父さんの功太さんです。
家族で通っていた中華料理店「四海楼」の店主・長田正広さんとは、町内会の仲間でもありました。差し入れの鍋のお礼に、功太さんがアワビの刺し身を持ってきてくれたこともあったそうです。



(差し入れの)鍋を持っていくとさ、夜8時ごろかな。(佐々木朗希の父)功太が「御礼にこれどうぞ!」ってアワビの刺し身を持ってきてくれて
飲み会でお店のオリジナルの「坦々鍋」をよく頼み、締めに麺と麻婆豆腐を入れて食べていた功太さん。佐々木朗希投手もそれが好きで、これが今のお店の名物「麻婆坦々麺」の始まりになったと長田さんは話しています。
息子の佐々木朗希投手は、お父さんについてこう語っていました。



僕が言うのもあれですけど、(父・佐々木功太は)誰とでもすごく仲良くしていて。皆に愛されていたのかなあ、と思います。
佐々木朗希の父の死因は東日本大震災
2011年3月11日、陸前高田を津波が襲った
佐々木朗希投手が小学3年生だった2011年3月11日、東日本大震災が起きました。陸前高田市は大津波で壊滅的な被害を受けています。


当時、佐々木家は陸前高田で、両親と祖父母、3兄弟の7人家族で暮らしていました。地震のあと、佐々木朗希投手はお兄さん、弟さんと3人で高台の施設に避難し、そこで一夜を明かします。
お母さんの陽子さんは、仕事で隣町の大船渡にいて、浸水で動けなくなっていました。翌朝5時に車で陸前高田へ向かい、普段なら30分の道を3時間近くかけて、ようやく3兄弟と再会できたそうです。
「見つかりました」の電話
ところが、7人全員はそろいませんでした。



(家族全員が揃わないことに)覚悟した
大船渡の親戚の家で過ごした5日間のあと、3月16日に電話が鳴ります。
見つかりました
その言葉を聞いた9歳の佐々木朗希投手は、目を見開いてこう聞き返したそうです。



見つかったの?!
そのときの朗希投手の表情を、お母さんは今でも忘れられないといいます。
この津波で、お父さんの功太さんと、功太さんの母である祖母が亡くなりました。祖父は今も行方がわかっていません。
ネットでは、亡くなった祖母は佐々木勝子(ささき かつこ)さん(享年69)、行方不明の祖父は佐々木功(ささき いさお)さん(享年71)だと言われています。祖母は功太さんの翌日、3月17日に見つかったとも伝えられています。新聞やテレビの記事でこの名前が出たことはなく、ネット上の情報にとどまります。
自宅は津波で流され、その後は大船渡市に移り、避難所や仮設住宅で暮らしたそうです。
佐々木朗希の父との親子エピソード
野球未経験でもキャッチャー役に
佐々木朗希投手は、お兄さんの影響で地元の高田野球スポーツ少年団に入りました。


野球の経験がなかったお父さんですが、チームの練習ではノックを打ったり、キャッチャー役を買って出たりしていたそうです。当時の監督・村上知幸さんは、こう振り返っています。



家ではお父さんが毎日のようにキャッチャーをして、息子たちが投げ込んでいた。震災後の大変な時期でも野球を続けたのは、お父さんとの思い出もあるんじゃないかな。
佐々木朗希投手も、お父さんは「野球の楽しさを教えてくれた」存在だったと話しています。
「朗希は凄い!将来、プロになれる」
家の庭でキャッチボールをしていたころ、お父さんは佐々木朗希投手にこう言っていたそうです。



朗希は凄い!将来、プロになれる


四海楼の長田さんも、功太さんが「朗希は必ずプロになる」と口癖のように言っていて、飲み仲間と「また始まったよ」と冷やかしていたと話しています。冷やかされていた功太さんの言葉どおり、朗希投手はプロ野球選手になりました。
野球があったから頑張れた
震災のあと、大切な家族と家を失った佐々木朗希投手。それでも、お父さんがキャッチャー役を買って出てくれた野球は続けていきます。



やっぱり野球してる時が一番楽しかった。夢中になれる時間というのがあったおかげで、大変な時もつらい時も頑張れた。本当に野球があって、野球を知れてよかったと思う。
少年野球のチームメートは、当時の佐々木朗希投手をこう覚えています。



(佐々木朗希は)震災に関しての弱い部分は、あまり見せなくて。僕らに気を遣われるのも嫌だったのかなと思います。
高校時代は毎朝、お父さんたちの写真に「行ってきます」と声をかけてから学校に向かっていたそうです。
3月11日は「特別な日」
震災から10年となった2021年、佐々木朗希投手はこう話していました。



10年という節目だけど、僕にとっては毎年、忘れることはなかった。3月11日は毎年、特別な日なんです。
ドジャースに移籍した2025年には、「今年は日本以外で迎える初めての3月11日ですが、自分にとって特別な日であることに変わりはありません」とコメント。震災から15年の2026年には「大人になるにつれて、地元の存在がより特別なものになってくる」と語っています。
佐々木朗希の母・陽子さんの子育て
女手ひとつで3兄弟を育てる
震災のあと、お母さんの陽子さんは親族の助けも借りながら、女手ひとつで3人の息子を育ててきました。お母さんは、長男の琉希さんが父親代わりになって、弟2人の面倒を見てくれたと振り返っています。


子育てについて聞かれたお母さんは、こう答えています。



特に何もしていない。子どもたちの希望に応えるようにしていた。
それでも、「大きく育てたい」という思いから、子どもたちには早く寝るように促していたそうです。高校時代はお弁当を毎日3つ持たせ、一家で1週間に米10kgを食べていたこともあったんだとか。
プロ初勝利で「両親に」
2021年5月27日、佐々木朗希投手はプロ2年目で初勝利を挙げました。試合後、ウイニングボールについてこう話しています。



(ウイニングボールは)両親に渡したいと思います


これを知ったお母さんは、「『両親にプレゼントします』と言ってくれたことがうれしくて、号泣しました。私だけではなくて両親にと言ってくれたのが、本当にうれしかったです」とコメントしました。
なお、ネットでは「初勝利のボールが仏壇に飾られている」と書かれることがありますが、報道で仏壇に飾られたと伝えられているのは、高校3年の岩手大会で打ったホームランのボールです。
母の日のプレゼント
震災後の2011年5月、小学4年生になった佐々木朗希投手は、母の日に100円ショップで買ったタオルハンカチをお母さんに贈ったそうです。翌年は、仮設住宅から新しい家に引っ越したばかりのころで、ロールケーキをガレージに隠して、夕食後にサプライズで渡したんだとか。
プロになってからは「今、こうやってプロ野球で野球ができているのは母のおかげだと思っています」とも話しています。
佐々木朗希の兄弟と現在の家族
佐々木朗希投手は、3人兄弟の真ん中です。
- 兄・琉希さん:震災当時は小学6年生
- 弟・怜希さん:大船渡高校で投手として野球をしていた
2025年2月には、一般女性との結婚をInstagramで発表しています。
お父さんを亡くしてから15年。2026年10月16日時点でも、ドジャースで2年目のシーズンを送った佐々木朗希投手は毎年3月11日に故郷への思いを言葉にし続けています。
まとめ
今回は「佐々木朗希の父は死因は震災…顔画像や経歴に親子エピソードもまとめ」と題して、佐々木朗希投手のお父さんについてまとめました。
- 父・佐々木功太さんは、2011年3月11日の東日本大震災の津波で亡くなった(享年37)
- 祖母も亡くなり、祖父は今も行方がわかっていない
- 功太さんは葬儀店に勤める身長181cmの父で、地域の人気者だった
- 野球経験はなかったが、少年団でキャッチャー役を務め、「朗希は将来プロになれる」と言っていた
- 母・陽子さんは女手ひとつで3兄弟を育て、プロ初勝利の「両親に」の言葉に号泣した
- 2025年にドジャースへ移籍し、同年に結婚。3月11日は今も「特別な日」
以上の内容がわかりました。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。