テレビディレクターで、ドキュメンタリー映画監督の信友直子(のぶとも なおこ)さん。

認知症になったお母さんと、90代で介護を担ったお父さんの日々を撮った映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』(2018年)が大ヒットし、2022年には続編『ぼけますから、よろしくお願いします。〜おかえり お母さん〜』も公開されました。
家族はこの顔ぶれです。
- 父:信友良則さん。2026年6月28日に105歳で死去
- 母:信友文子さん。2020年6月13日に91歳で死去
- 兄弟:いない一人っ子
- 実家:広島県呉市
信友直子のプロフィール
- 名前:信友直子(のぶとも なおこ)
- 生年月日:1961年12月14日
- 出身:広島県呉市
- 学歴:広島大学附属高校 → 東京大学文学部英文科
- 経歴:森永製菓 → テレビディレクター
くれ観光特使を務め、呉市の総合計画審議会や市史の編さんにも関わっています。
信友直子の実家は広島県呉市
映画の舞台になった実家
信友直子さんの実家は、広島県呉市にあります。
映画『ぼけますから、よろしくお願いします。』の舞台も、この呉の実家です。2022年には、NPOと呉観光協会などが映画のゆかりの地を紹介するマップ「信友家が暮らす呉を歩こう」を作りました。

通っていた学校
小学校から大学まで、通った学校はこちらです。
| 学校名 | 住所 |
| 呉市立五番町小学校(現:呉市立呉中央小学校) | 広島県呉市西中央4丁目10−52 |
| 呉市立片山中学校 | 広島県呉市東片山町13番5号 |
| 広島大学附属高校 | 広島県広島市南区翠一丁目1番1号 |
| 東京大学 | 東京都文京区本郷7丁目3−1 |
小学校と中学校は呉市内で、高校は広島市の広島大学附属高校に通いました。実家から片道2時間かかったとも言われています。

その後、現役で東京大学文学部に合格して上京します。当時、呉から東京の大学に進む女の子はほとんどおらず、周りから驚かれたそうです。

卒業後は森永製菓に入り、その後テレビの世界に移りました。2020年3月に呉へ戻り、しばらくは東京と呉を行き来していましたが、お父さんが亡くなるまでの3年ほどは、呉の実家で一緒に暮らしていました。
実家はお金持ち?
信友直子さんの実家は、お金持ちではなかったようです。家計について本人が語ったことはありませんが、子どものころの暮らしぶりからはそう見えます。
- 幼少期にお金持ちの趣味に手が出せなかった
- 両親は戦争を経験している
子どものころ、写真に興味があったものの、当時のことをこう話しています。
写真も今とは違って、フィルムだから現像するにもお金がかかるし、お金持ちの子の趣味だったんですよ
フィルム代のかかる写真には手を出さず、代わりに鉛筆で文章を書いて表現していたそうです。
ご両親はどちらも戦争を経験しています。お父さんは「わしらは戦争も経験したし、食糧難で飢え死にしそうな目にも遭うとるけん、たいがいのことには驚かんのよ」と話していました。2人とも家の事情で夢をあきらめ、戦後は地道に働いてきました。
信友直子の父親は信友良則さん
父は食品会社の経理一筋
お父さんは信友良則(のぶとも よしのり)さんです。


1920(大正9)年11月1日の生まれ。英語が好きで、旧制三高(京都大学の前身の一つ)に進んで言語学を学ぶのが夢でした。一高や三高の寮歌のレコードを聴いては「わしはここに行きたかった」と言い続けていたそうです。
ですが、父親が早くに亡くなり、妹2人の面倒を見るために進学をあきらめます。太平洋戦争では召集され、陸軍で炊事や洗濯をたたき込まれました。
わしと同じくらいの年の男は、やろうと思えば家事はできるんじゃ
戦後は地元の食品会社に勤め、定年まで経理一筋。再雇用の誘いは断り、「わしゃ語学をやる」と、ラジオの語学講座を聞くのを楽しみにしていました。
ネットでは「父は元教師」と書く記事もありますが、誤りです。
90代で母を介護
お母さんの認知症がわかったとき、信友直子さんは仕事をやめて実家に戻ることも考えました。ですが、お父さんはこう言います。
わしが元気なうちは、おっかあはわしが見るけん。あんたはあんたの仕事をしんさい
そこから、90代のお父さんによる介護が始まりました。家事を引き受けたお父さんは、お母さんが気にしないよう、こう声をかけていたそうです。
信友家は一軒しかないんじゃけん、あんたがきれいにしても、わしがしても一緒よ
物忘れがひどくなったお母さんには、こう言っています。
あんたが忘れとることもわしが覚えとるけん、何でも聞きんさい
お父さんは自分で見るという思いが強く、診断から2年近くは介護サービスを使おうとしませんでした。
信友家にとって、もっとも厳しい時期だった
娘の仕事のことも気にかけていました。親戚から「一人娘が帰ってきて介護するべきだ」と言われたときは、「その時仕事のブランクが原因で娘にもう仕事の声がかからんかったら、あんたが娘の面倒を見てくれるんか!」と返したそうです。
「感謝せえ」と怒った日
いつも穏やかなお父さんが、お母さんを強く叱ったことがありました。お母さんがこう叫んだときです。
もう死にたい
信友直子さんは、その場面を映画に使うか迷いました。何度も映像を見返すうちに、お父さんがこう言っていたことに気づきます。
感謝せえ、感謝の心を忘れちゃいけん
お母さんはもともと、人への感謝を大切にしてきた人でした。お父さんが怒った理由を、信友直子さんはこう振り返っています。
私は、母は認知症なのだからもうどうしようもないのだと諦めていました。でも父は、母のことを絶対に諦めなかったんです。だから、悪いことは悪いと怒った
98歳で筋トレを始める
2018年9月、お母さんは脳梗塞で倒れ、入院します。お父さんは毎日、シルバーカートを押して片道1時間かけて病院に通いました。
おっかあを早く家に連れて帰ってやりたい。そのためならわしは何でもする
お母さんが家に帰ってきたときのことも考えていました。
一人じゃトイレに行かれんじゃろうけん、わしがおしめを替えてやる。それには筋力を付けなきゃならん
こうして98歳で、かかりつけのクリニックで筋トレを始めます。


母の最期にかけた言葉
お母さんは2020年6月13日に亡くなりました。コロナ禍で面会は1日30分に限られていましたが、仕事が減って呉に戻っていた信友直子さんは、お父さんと毎日通うことができました。
母は、自分が死んだら父がどうなってしまうか心配だったのだと思います。「今なら直子がそばにいてくれるから大丈夫じゃ」と、あの時期に旅立ったのではないか
お父さんがお母さんに「ありがとう」と言わないのを不思議に思って聞くと、こう答えたそうです。
いや、わしが感謝の言葉など言ったら、おっかあが『私はもうダメなんか』と思うけん、かわいそうでよう言えん
代わりに話していたのは、こんなことでした。
わしゃあ11月に100歳になるけん、お祝いにご馳走でも喰おうか。わしゃハンバーグがええわい
亡くなる日、病院の先生から「夜までいてあげてください」と言われ、2人は覚悟します。ずっと黙っていたお父さんは、夜9時を過ぎたころ、お母さんの手を握ってこう言いました。
おっかあ、あんたが女房で本当にええ人生じゃった。ありがとう
信友直子さんが婦人公論のインタビューで明かした場面で、別のインタビューでは「おっかあ、今までありがとうね。あんたが嫁に来てくれて、わしゃあいい人生じゃった」という言い方で語られています。お母さんの目からは、ひと筋の涙が流れたそうです。
父が「わしももうすぐ行くけん、ちょっと先に行って待っとってくれや」と言うのを聞いて、この2人にとって別れはちょっとの間なんだと。またすぐ会えるんだと思うと、幸せというか、穏やかな気持ちになれたんです
呉のちょっとした有名人に
お母さんが亡くなったあとも、お父さんは元気に暮らしました。2022年には101歳で要支援1の認定を受けていましたが、こう話していたそうです。
わしは自分でできるんじゃけん、(介護サービスは)いらん
映画の上映会を観たときには号泣し、「ええおっかあじゃった。おっかあと暮らせて、わしゃ本当に幸せじゃった」と話しています。舞台あいさつにも立ち、呉ではちょっとした有名人になりました。誕生日は、地元の映画館でファンに祝ってもらうのが恒例でした。
まわりの反応については、照れながらこう話していたと言われています。
恥ずかしいような時もあります。歳取っとりますからねえ、ええこというたらあんまり考えんですのう
2023年には絵本『おとうさんは103さい』が、2024年10月には父の言葉をまとめた本『あの世でも仲良う暮らそうや 104歳になる父がくれた人生のヒント』が出ています。
2026年6月に105歳で死去
お父さんは2025年11月に105歳の誕生日を迎え、好物のハンバーグを食べました。その後、誤嚥性肺炎で1か月半ほど入院し、退院してからは自宅の居間に介護ベッドを置いて、信友直子さんが家で介護をしていました。
2026年6月28日、お父さんは老衰のため呉市内の病院で亡くなりました。105歳でした。その日の昼に面会した信友直子さんは、講演のため東京へ向かう途中、羽田空港で知らせを受けたそうです。眠るような最期だったといいます。
毎晩「お父さん大好き」と声をかけると、お父さんは「直子が好き」と返してくれていました。葬儀では「ほんま幸せな人生だったね」と見送っています。お母さんが好きだったアジサイの季節で、「母の命日に逝かないか心配だったけれど、同じ月の少しだけ先まで生きてくれました」と話していました。お父さんの最期の映像も撮っていて、作品にするかどうかは時間をかけて考えたいそうです(2026年10月17日時点)。
信友直子の母親は信友文子さん
母は会計事務所で働いた
お母さんは信友文子さんです。


1929(昭和4)年の生まれ。戦後すぐに父親を亡くし、家族を養うために簿記を学んで会計事務所に勤めました。書道と絵が趣味で、洋裁も得意な社交的な人でした。
表現することに興味のあった母は、もし時代が違ったら何かものを作る人になっていたでしょうね
30歳のとき、38歳だったお父さんとお見合いで結婚し、その2年後に信友直子さんが生まれました。口ぐせは「人生一回きりなんじゃけん、楽しまないと損よ」だったそうです。
「好きなことをしなさい」
両親が娘に言っていたのは、ただひとつでした。
自分たちの経験からか、「好きなことをしなさい」というのが両親の唯一の教育方針。広島を出て東京の大学に進学したことも、その後の進路も、反対されたことは一度もありません
当時は、女の子は地元で嫁ぐのが当たり前という空気が強かった時代です。それでも2人は、東大に受かったひとり娘を東京へ送り出しました。
撮影を続けたきっかけ
信友直子さんがご両親を撮り始めたのは、仕事用のハンディカメラの練習のためでした。2007年に乳がんがわかったときは、自分の闘病も撮っています。
引きで撮ったほうが臨場感が出る
このとき、お母さんは上京して娘を支え、映像には娘を笑わせようとするお母さんの姿も残っています。
2012年の春、お母さんの物忘れが目立つようになります。お母さんを傷つけるのではと思い、信友直子さんはしばらく実家にカメラを持って行きませんでした。すると、お母さんのほうからこう聞かれたそうです。
あんた最近、ビデオで撮らんね。お母さんがおかしゅうなったけん、撮らんようになったの?
その一言で、変に気をつかわれるほうがお母さんはつらいのだと気づき、撮影を再開しました。2014年1月、お母さんはアルツハイマー型認知症と診断されます。85歳でした。
2018年9月に脳梗塞で倒れ、その年の暮れに再発して寝たきりになりました。お母さんの遺骨はしばらく自宅の仏壇に置かれ、お父さんが亡くなったときに一緒にお墓に入れるつもりだと話していました。
信友直子の兄弟は?
信友直子さんに兄弟はおらず、一人っ子です。公式サイトにも「一人っ子として育つ」とあり、映画の公式サイトでは「結婚もせず仕事に没頭するひとり娘」と紹介されています。
信友さんの年代では、地方から娘を東京にやる親はまだ少なかったが、ふたりは迷わず東大に合格したひとり娘を東京に進学させた。
引用:https://bunshun.jp/articles/-/52929?page=4
お父さんには妹が2人いて、母方のおばあさんも認知症だったそうです。お父さんが1人で暮らしていたころは、幼なじみの百野友美さんが生活を手伝ってくれていました。
まとめ
今回は「信友直子の父は105歳で死去!母親や兄弟など実家の家族もまとめた!」と題して、信友直子さんの家族についてまとめました。
- 実家は広島県呉市。映画の舞台にもなった
- 父の良則さんは食品会社の経理一筋。90代で母を介護し、98歳で筋トレを始めた
- 父は2026年6月28日に105歳で亡くなった
- 母の文子さんは2014年に認知症と診断され、2020年6月13日に91歳で亡くなった
- 両親の教育方針は「好きなことをしなさい」
- 兄弟はいない一人っ子
以上の内容がわかりました。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。